ある日の集会のことです。
学校では、全校児童が体育館に集まる時間があります。
校長先生の話を聞いたり、児童会の発表を見たり、先生からの連絡を聞いたりする時間です。
その日は、いつもと少し空気が違いました。
体育館に来る子どもたちの様子が、いつもより落ち着いていなかったのです。
いつもなら、もう少し静かに入ってきます。
教室の前に並ぶ。
廊下を歩く。
体育館の前で止まる。
静かに入る。
自分の場所に座って待つ。
もちろん、全員が完璧にできるわけではありません。
低学年もいます。
朝から元気な子もいます。
友達が横にいれば、つい話したくなる子もいます。
それでも、いつもはもう少し集会に向かう空気があります。
でも、その日は違いました。
来るときから、子どもたちがしゃべっていました。
廊下でもざわざわ。
体育館に入ってもざわざわ。
座ってからもざわざわ。
いつもは落ち着いている六年生まで、どこか空気がゆるんでいるように見えました。
体育館シューズを忘れている子もいました。
決められた場所に上靴を置けていない子もいました。
体育館に入る前から、すでに何かが崩れているように感じました。
一年生から六年生までが体育館に集まると、そのざわざわは一気に大きくなります。
一人ひとりの声は小さくても、人数が集まると大きな音になります。
前で話している先生の声が届きにくくなります。
話を聞こうとしている子まで、まわりの声に引っ張られます。
体育館全体が、落ち着かない空気に包まれていました。
その日、前で指導していた先生は、とても辛抱強く子どもたちに声をかけていました。
「静かなところが出てきましたね」
「いい姿勢の人が増えてきましたね」
「前を向いて聞こうとしている人がいますね」
そんなふうに、子どもたちのよい姿を拾いながら、空気を整えようとしていました。
本当にすごいなと思いました。
僕だったら、そこまで待てただろうか。
そんなことを思いながら見ていました。
集会の中では、校長先生の話がありました。
児童会の子どもたちによる、七夕に向けた劇もありました。
内容は盛りだくさんでした。
児童会の劇のように、子どもたちが前で発表している場面では、反応があっていいと思います。
笑うところでは笑う。
拍手するところでは拍手する。
盛り上がるところでは盛り上がる。
それは集会のよさでもあります。
子どもたちが前に立ち、みんなに伝えようとしている。
それを見て、反応が返ってくる。
そこには、温かさもあります。
でも、話を聞く場面は違います。
校長先生の話を聞く。
先生からの連絡を聞く。
前に立っている人の話を聞く。
そこでは、やはり静かに聞くことが基本です。
盛り上がる場面と、静かに聞く場面。
その切り替えが大事です。
ところが、その日はその切り替えがうまくいきませんでした。
ざわざわ。
ざわざわ。
ざわざわ。
話が始まっても、どこかがしゃべっている。
誰かが動いている。
まわりを見ている子がいる。
全体として、静かになりきらない。
そんな時間が続きました。
最後に、児童会の司会が言いました。
「先生方から連絡はありませんか」
そのとき、僕は手を挙げました。
そして、前に出ました。
生活指導として伝えなければいけない連絡もありました。
でも、それだけではありませんでした。
このまま終わってはいけない。
そう思いました。
子どもたちに話をしました。
集会は、体育館に入ってから始まるのではない。
教室の前に並んだところから始まっている。
廊下を静かに歩く。
体育館に静かに入る。
自分の場所で静かに待つ。
静かを作ってから、話を聞く。
それが集会です。
そんな話をしました。
正直に言うと、少し強く言いました。
「ちゃんと話を聞こうや」
「この状態はあかんねん」
「朝礼に来るときは、教室の前で並んだところから静かにするねん」
「廊下も静かに歩くねん」
「体育館にも静かに入るねん」
「静かに待つねん」
「静かを作って、それから話を聞くねん」
そういうことを話しました。
静かは、自然にできるものではありません。
静かは、作るものです。
誰か一人が黙ればできるものではありません。
そこにいる全員が、少しずつ自分の声や動きを整えていく。
それで初めて、体育館に静かが生まれます。
それでも、まだざわざわしているところがありました。
話をしている最中にも、どこかで小さな声が残っている。
聞いているようで、聞いていない空気がある。
その様子を見ながら、僕は思いました。
これは、子どもたちだけの問題ではない。
教師集団の足並みも、そろっていないのではないか。
集会で静かを作ろうと、本気で動いている先生がいます。
自分のクラスの前に立つ。
子どもたちの表情を見る。
姿勢を見る。
しゃべっている子に近づく。
目で合図をする。
必要ならその場で声をかける。
自分のクラスだけでなく、近くの子どもにも関わる。
そうやって、全体の空気を作ろうとしている先生がいます。
一方で、後ろから見ているだけのように見える先生もいます。
ただ集会を眺めている。
子どもたちがざわついていても、あまり動かない。
自分のクラスの子が崩れていても、指導に入らない。
もちろん、それぞれに事情はあります。
役割もあります。
体調やその日の状態もあります。
毎回、全員が同じように動けるわけではありません。
それは分かっています。
でも、全校児童が集まる場面では、担任も教師集団の一員です。
前に立っている先生だけが、集会を作っているわけではありません。
校長先生だけが、空気を作っているわけでもありません。
担任一人ひとりが、自分のクラスを見ているか。
学年として、静かに集まる空気を作れているか。
必要なときに、子どもたちのそばへ行けているか。
そこが問われます。
職員会議などでは、確認しています。
集会では、担任も子どもたちの様子を見ましょう。
自分のクラスの子どもたちを確認しましょう。
必要があれば、声をかけましょう。
静かに集まる空気を、教師みんなで作りましょう。
そういうことは、話しています。
でも、実際の場面になると、差が出ます。
動く先生。
動かない先生。
すぐに声をかける先生。
見逃す先生。
やり切る先生。
途中でゆるめる先生。
そこに差が出ます。
そして、子どもたちはそこをよく見ています。
子どもは、教師の言葉だけを聞いているのではありません。
教師集団のズレを見ています。
「あの先生は言う」
「あの先生は言わない」
「あの先生の前ではやる」
「あの先生の前ではやらなくても大丈夫」
そうやって、人によって態度を変えていきます。
これは、子どもがずるいという話ではありません。
子どもは環境を見ているのです。
どこまで許されるのか。
どこから本気で止められるのか。
大人たちが同じことを言っているのか。
それとも、人によって違うのか。
そこを敏感に感じ取っています。
だからこそ、学校で決めたことは、教師集団でそろえてやり切る必要があります。
たとえば、今年から体育館に入るときのルールが変わりました。
体育館シューズは、体育館の前で履き替える。
上靴から体育館シューズに履き替える。
体育館に入ったら、自分の場所に座る。
そして、脱いだ上靴は自分の横に置く。
そういう決まりになりました。
去年までは、体育館の前が混雑することもあり、教室から体育館シューズを履いて行くこともありました。
でも、今年からは、体育館シューズと上靴をきちんと使い分けることになりました。
決めたなら、やり切る。
そこが大事です。
ところが、そのルールが徹底されていない場面がありました。
体育館シューズを持ってきていない子が、そのまま上靴で入っている。
上靴を置かないことになっている場所に、何人かが置いている。
それを見ても、担任が指導しない。
そんな場面がありました。
一方で、別の学年ではしつこく声をかけています。
「ここで履き替えるよ」
「体育館シューズを持って入るよ」
「上靴は自分の横に置くよ」
「そこには置かないよ」
何度も何度も言います。
しつこいくらい言います。
でも、そのしつこさが大事なのです。
子どもは、一回言っただけではそろいません。
四月に確認しただけでは続きません。
職員会議で決めただけでは、子どもには届きません。
毎回、その場で言う。
できていなければ戻す。
忘れていたら確認する。
ゆるみそうになったら立て直す。
それを続けるから、ルールはルールとして残ります。
逆に、大人がその場の判断で流してしまうと、ルールはすぐに弱くなります。
「今日はいいか」
「まあ、これくらいなら」
「今さら言うのも面倒だし」
「このまま入らせよう」
そういう小さな見逃しが積み重なると、決めたことが決めたことではなくなっていきます。
そして、子どもたちは学びます。
このルールは、守らなくてもいいのだ。
この先生は、見逃してくれるのだ。
この場面では、適当でも通るのだ。
そうなると、学校全体の指導が効きにくくなります。
ルールを厳しくすればいいと言いたいわけではありません。
何でもかんでも細かく決めればいいとも思いません。
子どもたちを締めつけたいわけでもありません。
ただ、決めたことを大人が勝手に緩めるのは危険だと思います。
もし、そのルールが現実に合っていないなら、職員会議で提案すればいい。
「このやり方は混雑します」
「低学年には難しいです」
「もう少し緩めませんか」
「別の方法に変えませんか」
そう話し合えばいい。
そのうえで変えるなら、それはいいと思います。
でも、決まっていることを、先生ごとの判断で勝手に緩めてはいけない。
それをすると、学校全体のメッセージが弱くなります。
この先生は許す。
この先生は許さない。
この先生は厳しい。
この先生は優しい。
そういう見え方になっていきます。
本当は、厳しいか優しいかではありません。
学校として、何を大事にするのか。
教師集団として、どこをそろえるのか。
そこが大切なのです。
集会のざわつきは、子どもたちだけの問題ではありません。
教師集団が同じ方向を向けているか。
決めたことをやり切れているか。
子どもたちの前で、大人が同じメッセージを出せているか。
そこが表れます。
もちろん、毎回完璧にはできません。
子どもたちにも、落ち着かない日があります。
疲れている日もあります。
行事前で気持ちが浮ついている日もあります。
教師も余裕がない日があります。
体調が悪い日もあります。
他の仕事に追われている日もあります。
だから、一回の集会だけで何かを決めつけることはできません。
でも、その日の体育館には、確かに危うさを感じました。
ざわつき。
靴のルールのゆるみ。
動く先生と、動かない先生の差。
決めたことが、場所によって違う扱いになっている空気。
そういうものが重なって見えました。
学校は、大きな事件だけで崩れるわけではありません。
小さなところから、少しずつゆるんでいきます。
廊下を静かに歩く。
体育館に入る前に履き替える。
話を聞くときは黙る。
人が前に立ったら顔を向ける。
決めたことを守る。
そういう一つひとつは、小さいことです。
でも、その小さいことを大人がそろえて言えなくなると、子どもたちの行動もそろわなくなっていきます。
そして、子どもたちの行動がそろわなくなると、今度は教師がさらに指導しにくくなります。
「何で自分だけ言われるの」
「あのクラスはやっていない」
「あの先生は何も言わない」
そうなっていきます。
だから、最初の小さなズレを甘く見てはいけないのだと思います。
静かに集まる。
話を聞く。
決めた場所で靴を履き替える。
上靴を自分の横に置く。
どれも小さなことです。
でも、その小さなことに、学校の空気が出ます。
子どもたちを責めたいわけではありません。
ざわついた子どもたちだけが悪いと言いたいわけでもありません。
ただ、教師として見えてしまうのです。
体育館のざわつきに、学校の空気が出ている。
子どもたちの姿に、教師集団のそろい方が出ている。
そして、大人の足並みのズレを、子どもたちは確実に感じ取っている。
そのことを、改めて感じた集会でした。
静かは、勝手には生まれません。
静かは、作るものです。
前に立っている先生一人が作るものではありません。
生活指導の先生一人が作るものでもありません。
担任一人ががんばればできるものでもありません。
教師集団全体で作るものです。
子どもたちに、
「話を聞きましょう」
と言うなら、大人が同じ方向を向く必要があります。
子どもたちに、
「決まりを守りましょう」
と言うなら、大人が決めたことをやり切る必要があります。
子どもたちに、
「集団で動きましょう」
と言うなら、大人も教師集団として動く必要があります。
集会は、ただ話を聞く時間ではありません。
学校全体で同じ空気を作る時間です。
子どもたちが、自分の行動を整える時間です。
そして、教師集団が同じ方向を向けているかが見える時間です。
その日の集会は、僕にとって少し苦い時間でした。
でも、同時に大事なことを考える時間にもなりました。
静かを作ること。
決めたことをやり切ること。
大人が同じ方向を向くこと。
子どもたちは、そこを見ています。
体育館のざわつきは、ただのざわつきではありませんでした。
それは、学校の空気を映す鏡だったのだと思います。







かめ先生、お疲れ様でした😥かめ先生が感じられている危機感がひしひしと伝わってきました。担任の指導のブレやズレは学級崩壊を招きますが、教師の足並みが揃わないのは学校崩壊につながりかねませんね。かめ先生と同じように感じてる先生もいるはずなんですが、声をあげられないのかもしれないですね🥲
学年の上の生徒を見本にしましょうとか、入学式の時とかに言っわれていたのをは、同じ行動をするのに必要な事なんですかね😌
個々で作ろうとしてもできないものがありますね😌